2011/11/29

ドイツ国際平和村 パケット運動★

子どもの頃、よく「ポシェット運動(パケットアクション)」に参加して、当時紛争が続いていた旧ユーゴスラビアの子ども達にペンや鉛筆、ノート、筆箱などをかわいい手作りの手提げ袋にいれて送るということをしていた。子どもながら、遠くの国に暮らす子どもたちが、自分たちの詰めた文房具で文字を書いたり、絵を描いたりできるかと思うと、戦争や紛争でどれだけの被害があったかは別として、嬉しくて胸を弾ませた記憶がある。ああいう機会があったから、「民間人(市民)が協力して助け合う」というコンセプトのNGOの活動に興味があるんだろうな。最も子どものときは、民間だの政府だの考えてなかったけど。

あれから15年以上経ち、再びパケット運動に参加することに。
今回は、現在働いている平和村のパケット運動。こちらでは、パケットアクツィオーン(Paketaktion)という。そして、そのパケットに入れるものは、食品類から衣料品、歯ブラシやハンドクリームなどの日用品まで幅広い。

これらの色んなものが詰められたダンボール箱は、アルメニアとグルジアにある平和村のパートナー団体を通じて、アルメニアグルジアナルゴノ=カラバフ自治州(アゼルバイジャン南部の行政区)タジキスタンの貧しい人たちに届けられる。







私は先ほどパッキング終え、重さを測ってみた。

12kg。

砂糖や小麦粉、麺類、野菜の缶詰など食品類が中心。少し空いたスペースには、子ども用のジャケットとジョギングパンツをいれ、サンタさんのチョコレートを一番上を乗せて箱を閉じた。
ドイツ屈指のディスカウントスーパーチェーン店で買った安価なものばかりだけど、寒い冬を乗り切ってもらえるよう思いも込めたパケットッ!
どんな家族の手に渡るんだろう。たった12kgだけど、いったい何人家族なんだろう。
ジャケットはぴったりかな。

なんて考えながら、来年のパケット運動もぜひ参加したいと思った。

※参考※
http://ameblo.jp/allesklar/entry-11074935763.html

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2011/11/20

DER SPIEGEL GESCHICHTE

本屋で見つけた、シュピーゲルの歴史編。と、ともに舞妓さんが載ったクッションカバーを並べてみた☆




「日本 女性 着物 = Geisha 」
多かれ少なかれ、こっちの人達はこう想像してしまうのでしょうか。以前、留学仲間のフランス人に大学の卒業式で撮った振袖姿の写真をみせたら「ゲイシャ だー!」と言われたことがあります。

それはともかく、シュピーゲル歴史編、日本特集、ドイツ人の視点でどう日本が描かれているか、どういうところが問題提起されているかなど、読み応えがある。


2011/11/16

母国語を忘れてしまった彼

明日は、年2回行われているアフガニスタンとその周辺国の援助飛行とは別に、随時補足的に予定されたミニアインザッツ(援助飛行)が行われる。平和村のアフガニスタンのパートナー団体関係者がヨーロッパを訪れているということで、それに便乗して治療が終わった子どもたち9人が母国へ帰られる。
長い子どもで2年と3ヶ月、ドイツで治療生活に励んだ。
今夜はどんな思いでベットに就いているだろう。

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先日、退院してきたN少年。

足の治療のために今年の2月の援助飛行でドイツへやってきて以来、9ヶ月間に及ぶ入院生活を送った彼。その彼がドイツで得たものとは・・・・かなり流暢なドイツ語。
言語習得の基礎は4~5歳までと思っていたので、彼の9ヶ月間の獲得ぶりに驚いた。
平和村の子どもたちは、一応はドイツ語は理解し実際に使うとは言っても、村での生活ではかなり使用言語が限られるし、なんせ「村の子ども言葉」になってしまい、正確なドイツ語とは言い難い。けれど、病院での入院生活が長い子どもほど、実際にドイツ社会で使われているドイツ語を耳にし話すことが必然的に多くなるので、正確な言語が獲得できる。
N少年の場合、ドイツ入国から子どもたちの暮らす平和村に来ることなく空港から直接担当病院に運ばれたので、まったく「村言葉」や「村の習慣」に接することがなくドイツ社会に入った。

9ヶ月間、病院で快適な(?)生活を送っていた彼を待っていた平和村での生活は驚くことが多くて、その現実を受け入れるが難しかったのだろうか、彼は退院した当日、ずっと泣いて過ごしていた。
何が驚くことかって、
①色んな国の子どもがいる(変な言葉を話すし、肌の色がそもそも違う) 
②腕がない子どもや指がない子どもがいる 
③何でも自分でしないといけない 
④せっかく手術が終わり病院から出られるのに、家族に会えない 
などなど色々と泣きたくなることはあったのだろう。

けれど、一番辛いのはどうやら自分が母国語(ダリー語、アフガニスタンの公用語のひとつ)を忘れてしまったため、かといってドイツ語はうまくすぎて他の子どもが理解をしてくれないために孤独を感じていたことだろう。

退院当日の夜、泣くN少年を囲んで子どもたち数人と大切な時間を持てた。
そこに集まったのは、タジキスタンの子ども2人、ウズベキスタンの子ども3人、アフガニスタンの子ども1人、そしてアルメニアからの子ども1人だった。

普段は言葉でうまく通じ合えないから、どうしても力ずくで相手を負かせようとしたり、物を奪いあったりすることがよくある子どもたちも、泣いたNを前にうまいとは言えないドイツ語で「泣くなよ、ここは楽しいよ」と励まし合っていた。こういう光景を目にすると、私も黙っていられず;

 N!泣いてばかりいても、何も始まらないよ。Nはすごいよ。病院でのたくさんの手術にも耐えられて今ここにいるんだし、病院でたくさんドイツ語も覚えたもんね。アフガニスタンのお父さんやお母さんに早く、この足を見せてあげたい。自分で歩けるもんね。
ただね、国に帰るまでの間、平和村でその日を待たなければないの。けどね、そういう子どもはN、あなただけじゃないんだよ。
見て、この子。Eはね、タジキスタンからおしっこの病気できたんだよ。ドイツ語はまだまだ全然なのに、私がドイツ語でしかってもちゃんとわかろうと努力するんだよ。それに怒られても次の日には素敵な笑顔で笑ってる。
そしてね、アルメニアから来たV。彼はね、この村で唯一アルメニア語を話す男の子なの(平和村には現在、2名のアルメニアからの少年がいるが、もう一人は長いドイツ滞在で同じく母国語を忘れてしまっている)。ドイツ語も今少しずつ習ってるけど、まだあなたみたいにはたくさん話せない。それでもたくさんここで友達を作ってるよ。この前帰ったアンゴラの子どもたちともたくさん遊んで、いいお別れをしたんだよ。大丈夫、今日は辛くても、明日は絶対楽しく遊ぼうっ!

となだめた。その後すぐには泣きやまなかったけど、次の日には笑顔で挨拶をしてきた。

平和村の子どもたちは、親から離れて生活をするし、学校に行けない時期を過ごすことになるけれど、世界の他の国から来た同じように体に病気や怪我を抱えた子どもたちと出会い、大切なことを学んで帰るのだと思う。そんなかけがえのない時間を共有させてもらえて、子どもたちに感謝したい。
そして、Nは明日のミニアインザッツでアフガニスタンの両親の元へ帰ってゆく。
帰国前の子どもたち(2011年8月)
写真:ドイツ国際平和村
 
元気でね!



2011/11/13

カカ事件!

アンゴラっ子たち、ついに隔離塔の外へ☆

といっても、シラミやマラリアなど感染病がネガティブ反応した子ども達だけだけど。

隔離塔では、外で自由に遊ぶことができなかったので、運動場で体を動かしている彼らをみて、こちらも嬉しくなった。しかも、肌の色関係なく遊んでた(涙) ※使う言語も違う中、やっぱり肌の色で分かれちゃうことが多いのです。

さて、今日起こったカカ事件について。。
ドイツ語の子ども言葉で「うんち」のことを「カカ」という。おしっこは「ピピ」。言葉はカカですが、万国共通「臭くて汚くて、絶対素手では持ちたくないもの」には変わりない。

そんなカカが、今日、子ども達が暮らす家の階段の下の一目につきにくいところに。どうやら、そこでカカだけでなく、ピピもされていた。うー。。。
一体誰が!?病気のストレスから?!いたずら?今までこんなことなかったのに。

スタッフいわく、援助飛行直後は、特に新しい子ども達が勝手がわからず適当にトイレ以外のところで用を足してしまうことがあるらしい。
一体どんな環境なの!?アンゴラ!といいたくなるけど、子ども達を責められない。

子どもにとっては、ドイツでの文化や習慣、何もかも違っている現実を受け入くれること自体大変だろうから。


2011/11/06

学校にいけなかった彼

援助飛行(アインザッツ)終了。
4日には、75人の新しい子ども達がアンゴラからドイツへやってきた。このうちの約35人が平和村に滞在している(残りは空港から直接病院へ運ばれ入院した)。平和村滞在といっても、マラリアや肝炎等、感染病を持っている可能性があるということから3週間は隔離塔で過ごしている。

そのため、100人以上いたユンゲ(Junge:6歳以上の男の子)も現在70人弱に。やっぱ、楽。
そして、この前新しい子ども達の仕事分担表が出来上がったので、子どもも動く(= 住んでいるところを清潔に保つため、掃除は重要!)。

そんなこんなで、今日は8時には子ども達がやるべき仕事は終わっており、私も自分の仕事を終わらせ、建物の最上階(3階)、10歳以上の子ども達が生活する場に向かった。

これまでは、全く掃除がされてなかったりで、大声張り上げて
「これは一体なんなのよー! こんな豚小屋みたいな部屋があるかっ!」
と叱ることが多かったけど、今日はゆっくり彼らと話ができた。


◉ T少年 (アフガニスタン)
一人静かに雑誌を読んでたT。F1レーサー、ミヒャエル・シューマッハの特集があった。それを真剣に読んでいる(目を通してる?)。私もその横にチョコっと立って見ていたので、シューマッハ武勇伝をTに説明される。そんな事を話していると、なぜか彼の手術の傷跡の話に。

小さい頃、家で体に大きな火傷を負ってしまった彼の足は、今では彼の歩き方から、そんな大怪我を感じさせない。けど、よく見てみると右足の指が全くない。きっちり指がついてある左足はというと、やや小さめ。思いっきり走れるのかな。バランスはどうなんだろう。足の指ってバランスとるのに重要な要素なんじゃないかな。

この大怪我が理由で、学校にほとんど通えてなかったから、字が読めないんだ、とT。
この日彼は、ダリー語かパシュトゥー語かは私はわからなかったけれど、アフガニスタンの文字で書かれた地図をみて、読む練習をしていた。がんばれ、T!

叱ってばっかより、こうやってゆっくり話ができたから、今日はなんか幸せ。子どもに元気もらってんなー、私。

隔離塔から2週間後に出てくる新しいアンゴラキッズ。彼らともこういう時間を共有できたらな。





Photo : E少年(アフガニスタン)のドイツ入り直後の作品!未知の国での生活に戸惑っていた当時の拠り所は、お絵かき☆
人見知りなのか全く話そうとしなかった彼が、覚えたてのドイツ語を使って私にもどんどん話しかけて来るようになった。それどころか、たんまりと要求もされる。

今となっては、はにかんでた当時が想像できないくらいワンパク少年。まぁ、これも成長の証やな。

2011/11/03

アンゴラの子、元気でね!

11月1日、ドイツで治療を終え、元気になった子ども達が、母国アンゴラへと帰っていった。ここ数ヶ月、常に200人の子ども達が平和村で生活をしていたので、80人が一気にいなくなると、やはり村はがらんとしてる。

平和村は年に四回、「援助飛行(Einsatz)」と呼ばれる治療が必要な子どもをドイツへ連れ、元気になった子ども達を母国に帰すという飛行がある。2月、7月にアフガニスタンやコーカサス地方の援助飛行、そして5月、11月にアンゴラの援助飛行。

私にとって初めてのアンゴラ援助飛行。突然のチャーター機キャンセルで異例の予定で向かえた前回のアフガン援助飛行と違い、働いているスタッフ自身が感傷的になっているのように感じた。ドイツで出会ったアンゴラの子ども達。仕事とはいえ、毎日顔を合わせ、叱って、笑って過ごしていると、家族のような思いになるのは、人間的。だけど、私にはそれがあまりよくは映らなかった。なんというか、帰ったって国の医療や福祉、教育の普及にはまだまだ前途多難な状況であるし、目の前にいる子ども達との別れを惜しむことで、平和は訪れるわけではない。
けど、どこかで感情的になれずに冷静に子ども達の旅立ちを見送った自分は冷たい人間なのかと、自分に問いかけたりもした。

とにかく、久しぶりの家族との再会☆どんな話をしてるのかなぁ。




Photo: ドイツの公共バスが平和村から空港まで無料で送迎をしてくれる。これも有難い寄付のひとつ。

2011/11/01

平和村とは①

2011年7月から研修生(Praktikantin)として、活動をしている平和村について。

日本で、「平和村」って聞いたことある人はどれぐらいいるのでしょうか。
ドイツ語では Friedensdorf International (国際平和村)が正式名称で、日本では「ドイツ国際平和村」や「ドイツ平和村」など、通称で呼ばれているらしい。

その平和村とはなにか。

ドイツはノルトライン・ヴェストファーレン(NRW)州オーバーハウゼン市にある、市民による国際協力団体(NGO)です。

元気になって帰国を控えたアフガニスタンの子どもたち
写真:ドイツ国際平和村提供
紛争地域や危機に瀕した国々、インフラ整備が十分ではない地域の子どもたちがドイツで治療を受けられるように援助し、元気になった子どもたちを、再び親の元へ送るという活動を主に行っている。現在は、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、アルメニア、グルジア、そしてアフリカのアンゴラの6カ国から子どもたちがやってきて、ドイツ全土の病院で治療を受け、治療を待つ子どもたちや、治療が終わり帰国の日を待つ子どもたちが、オーバーハウゼン市にある平和村施設で生活をしている。
このドイツでの子どもたちへの医療活動の他、現地パートナー団体との協力プロジェクトや平和教育活動も行っている。

日本では、90年代半ばにNHKが取り上げ、その後『世界ウルルン滞在記』(MBS)でリポーターとして東ちずるが紹介したことで多くの人に知られるようになった。

研修期間中、平和村日本語ホームページの【平和村の歴史】編集のお手伝いをしたので、
あらためて、ここで簡単に平和村の誕生と将来像を。
(平和村ホームページより一部抜粋、修正https://www.friedensdorf.de/About-Us-174-History-180.html


【平和村誕生】

1967年、朝鮮半島や中東、ベトナムなど世界各地で戦争が続く中、イスラエルとエジプト、ヨルダン、シリアとの間で六日間戦争(第3次中東戦争)勃発した。テレビに映る子どもたちの悲惨な状況に、当時のオーバーハウゼン市民は心を突き動かされ、そうした市民たちから"Aktion Friedensdorf e.V."(ドイツ国際平和村)のアイディアが生まれる。1967年7月6日、当団体は、オーバーハウゼン市当局によって慈善事業を目的とする登録団体(E.V.)として認定された。
平和村の誕生には多くの人々が関わっている。Hüttenwerke Oberhausen AG(オーバーハウゼンの精鉄会社)は、オーバーハウゼン市シュマハテンドルフにある土地を平和村の活動場所として提供し、Babcock社(製造会社)は、経理処理を担った。そして、集まった寄付金によって子どもたちの宿泊施設建設のための資材を購入することができた。数えきれないほどのボランティアの力によって、全てが整えられ、またそこには、世界中からやってきた若者たちや、当時ドイツに駐在していたイギリス軍、連邦国防軍、警察機動隊の隊員たちの協力もあった。
1967年末、平和村の最初の施設、完成 → 同年12月、ベトナムから第一号となる子どもたちが渡独。

【二度と起こってはいけないこと】
1975年、状況は一転する。4月30日、約10年間続いたベトナム戦争は終結し、ベトナムについに平和が訪れた。しかしそれはドイツ国際平和村にとって危機であった。当時、ドイツ国際平和村の支援によってドイツに滞在中の120人のベトナムの子どもたちが故郷に帰ることができなくなってしまったのだ。戦争終結後のベトナムにおける新たな政治体制によって、彼らの帰国の途は断たれてしまった。
そこで平和村は、ドイツ国内に残された子どもたちにそのままドイツで生活を送らせるという苦渋の決断をする。
「ベトナムがもう彼らの故郷ではなくなること。たとえ今は変わってしまっていたとしても、かつての美しい故郷の写真を見ては、郷愁の想いを抱きながらこの寒いドイツで暮らし続けること。私たちはそんなことを子どもたちに願ったわけではありませんでした。」長年にわたり平和村で活動し代表を務めた、今は亡きゲーゲンフルトナーはこう当時を振り返った。